第3章:手話言語学の登場

手話言語学は、音声言語と比べると、歴史がはるかに浅い。   音声言語の学術的研究は、紀元前数世紀にまで遡ることができる。これら初期の言語分析の大半は、言語の変化の観察に端を発しており、ギリシャの文法技法、ローマの言語学、ヘブライ語の様式など、世界各地にさまざまな言語の伝統的様式があった。16世紀以降には、長距離航海が活発に行われるようになり、軍事征服や植民地化が拡大したことから、ヨーロッパの人々が他の大陸の音声言語を知る機会が増えた。その結果、言語学分野において、異なる言語の語彙・文法上の比較・記述が根づき始めた(Campbell 2017)。

19世紀末から20世紀初頭にかけては、言語学者の関心が、      歴史言語学(通時的アプローチ)から非歴史的視点からの研究(共時的アプローチ)へと移り始めた。特に、言語要素がどのように系統立てられ、その言語の構造体系として統一されて   いるかという点が重視されたが、このアプローチが西洋の近代言語学の土台となった。そうした近代言語学の重要な学者の   ひとりが、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857-1913)である。ソシュールは、言語体系はさまざまな部分要素で構成され、各言語は、構造特性の経験的観察に基づいて、その言語独自の条件に従い説明できると提唱した(François and Ponsonnet 2013)。

音声言語の言語学において活発な研究が進められたにも関わらず、1960年代に入るまでは、ろう者が使用する手話言語に実際に大きな関心を向ける研究者はいなかった。事実、著名な言語学者が手話の言語的地位を軽視することも、珍しいことではなかった。レナード・ブルームフィールド(Leonard Bloomfield)は、その時代に最も影響力の大きかった言語学者のひとりであるが、彼の画期的な著作『言語』(Language, 1933:39 三宅・日野訳, 1962, p.48)で、ろう者が用いる身振り言語について次のように記している。

  • 「これらの身振り言語が単に普通の身振りから発達した ものにすぎないこと、また、複雑なあるいはすぐにはわかりにくいような身振りも、すべてどれも普通のことばの約束に基づいたものであること、これは確かであると思われる。」

ブルームフィールドの目から見れば、ろう者が使用する手話は、「通常の身振り」の集合体に過ぎず、音声言語に基づいていて独自の文法体系を持たないものであった。

手話に対する同じような否定的な見方は、心理学の分野においても見られた。ヘルマー・マイクルバスト(Helmer Myklebust)は、自著『Psychology of Deafness(ろう者の心理学)』(1957)の中で、手話は音声言語よりも劣っていると主張し、手話は   絵文字のようなものであるため、ろう者が自らの潜在能力を   最大限に伸ばす機会を奪うと非難した。

上記二つの事例は、1960年代以前の学界において、手話に対する否定的な見方が一般的であったことを示している。このような手話に対する学者の否定的な考え方が、ろう教育に悪影響を及ぼしたことは疑う余地がない。当時、世界中のろう学校では、口話法が中心であった。ろう教育の普遍的目標は、音声 言語や読唇術を学習することであり、一般知識の習得など、 その他の教育目標はおろそかにされていた(Armstrong & Karchmer 2002)。しかし、1960年代にウィリアム・ストーキー(William Stokoe)が、アメリカ手話(ASL)の手話語彙に 言語学的原則を適用するという大胆な一歩を踏み出すと、状況は変化し始めた。

ウィリアム・ストーキー(1919-2000)は、今日「手話言語学の父」として広く知られている。ストーキーは、1955年、英語 教員として、ギャロデット・カレッジ(Gallaudet College) (後のギャロデット大学(Gallaudet University))に赴任した。ギャロデットで教鞭をとる以前は、ろう者に関する知識も経験もなく、学生が仲間同士のコミュニケーションに用いるアメリカ手話を目にしたのはこの職場が初めてであった。当時、ストーキーが同僚の教職員や他の言語学者と異なっていたのは、  アメリカ手話が音声言語と類似した言語学的特徴を示し、人間のコミュニケーション言語として同様の可能性を有している  ことに気付いたという点である(Armstrong & Karchmer 2002)。

1960年、ストーキーは、画期的な学術論文『Sign Language Structure: An Outline of the Visual Communication Systems of the American Deaf(手話の構造:米国のろう者の視覚コミュニケーション方式の概要)』を発表した。ひとつの手話単語は、手型(dez)、位置(tab)、動き(sig)という三つの別々の言語    要素に分解できるとする、ストーキーが提起した考え方は、  当時の言語学者や他の人々がアメリカ手話に対して抱いていた否定的な見方を根本的に変えた。彼の考え方については、後述する音声学および音韻論の章で詳細に取り上げる。アメリカ  手話に関して最初の著作を発表して以降、ストーキーは、40年間にわたって手話言語研究に尽力し、手話言語の言語的地位やろう児教育における手話言語の応用的価値を一般の人々に納得させる努力を続けたのである(Armstrong & Karchmer 2002)。

アメリカ手話に関するストーキーの最初の著作は、全く新しい研究分野を切り開いた。その後、60年間以上にわたり、手話言語学という学問分野は拡大を続け、世界中の数多くのろう者、聴者の言語学者が、手話言語に関する研究を進めてきた。手話言語学の歴史的発展の概要については、Woll(2013)を参照  されたい。

現在、手話言語学は学問分野のひとつとして認められており、「世界手話言語学会(Sign Language Linguistics Society)」(https://slls.eu/)、「国際手話言語学会(Theoretical Issues in Sign Language Research(TISLR))」、International Conference on Sign Language Acquisition(ICSLA)、Formal and Experimental Advances in Sign Language Theory(FEAST)などの学会や、『Sign Language Studies』、『Sign Language and Linguistics』などの学術誌が存在する。手話言語学の研究成果は、手話言語の言語的地位や、全世界のろう者コミュニティ、とりわけろう児教育における手話言語の重要性を、説得力のある形で立証している。

参考文献:

  • Armstrong, David, & Karchmer, Michael. Preface. 2002. In: David Armstrong, Michael Karchmer, & John Vickrey Van Cleve (eds). The Study of Signed Languages: Essays in Honor of William Stokoe. Gallaudet University Press.
  • Bloomfield, Leonard. 1933. Language. London: George Allen & Unwin Limited.
  • Campbell, Lyle. 2017. The history of linguistics: approaches to linguistics. In Mark Aronoff and Janie Rees-Miller (eds.). The Handbook of Linguistics, Second Edition. John Wiley & Sons, Ltd. P.97-117.
  • François, Alexandre & Maïa Ponsonnet. 2013. Descriptive linguistics. In Jon R. McGee and Richard L. Warms (ed.), Theory in Social and Cultural Anthropology: An Encyclopedia, vol.1, 184-187. SAGE.
  • Myklebust, Helmer. 1960. The Psychology of Deafness: Sensory Deprivation, Learning and Adjustment. New York & London: Grune & Stratton, Inc.
  • Stokoe, William. 1960. Sign Language Structure: An Outline of the Visual Communication Systems of the American Deaf. Linstok Press. (Stokoe, William. 2005. Sign Language Structure: An Outline of the Visual Communication Systems of the American Deaf (Reprint). Journal of Deaf Studies and Deaf Education, 10(1) , pp.3-37.)
  • Woll, Bencie. 2013. The history of sign language linguistics. In: Keith Allan (ed.) The Oxford Handbook of the History of Linguistics. Doi:10.1093/oxfordhb/9780199585847.013.0005.

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